黄昏過ぎて秋来たる
こちらは本編5部3章レイの回想の中でちらり語られた臨空市内のとある静かな通りの一角で彼を初めてフラクタル図書館へと招き入れたあの「少年」がいつどこからやって来て何を経てそこへ至ったのか少年の視点から手短に解説した小話となっています。
いやーはっきり言ってめちゃくちゃ感動している。と言うのも、確かにあの図書館で管理人の代理を務めている青年が「どの世界にも良し悪しなどはなくただ存在するものである」と実に預言者的な前置きをしながらも最終的にはまるで熱心な「神智家」であるかのごとく「違法」でないなら誰もが神による決定ではなく「自分自身の決定によりユートピアを実現できる世界」を理想として掲げたいと言い切ってくれた折には「そうだそうだ」と拳を挙げて賛同したが、とは言えわたし自身こちらの世界では決して「無神論者」ではないため今ストを読めばやっぱり「裁き」と「愛」が同じだけ内在し完全な神でありながら完全な人として生まれ「世界の終末」を告げ知らせると同時に世界を愛し自ら世界の罪を引き受ける「贖罪」に及ぶとある全知全能神の受難を思わずにいられなかったりするのよね。
で、もしかしたらレイの物語とはこの神も「人間の罪を贖うため」ではなく「人間の愛に魅了され」たったひとりの愛する人と一緒に歳を取りたくて物質世界に有限の存在として降誕したのかも知れないねって話なんじゃないかと思えてしまって。もちろん同じようなモチーフを描いた歴史小説や風刺小説には出会ったことがあるけども、こんなにロマンチックで寓意的なアプローチは人生初かも知れません。凄いね恋と深空←
疏白
あの髪の白い少年は名前を「疏白」というのだね。いつもは「人間を観察する側」にいるらしいので無論フラクタル図書館とは「観測によって結果が確定する空間」よりさらに上位次元、ただし幸運の循環でいう「星間郵便局」のように各星域とは「独立」しているある部門というわけではなくむしろそれらを「内包」するような場所であり、それこそ神に祝われし新章「エングル」と同じようにレイを主軸とした物語における「すべての世界」を創世から終焉まで観察して記録する機関のニュアンスなのだろうと思われる。
疏白は勉強仲間である十七と共に「講堂」なる場所で神言者に仕えるための礼儀作法を学んできたと言うのだが、これがいわゆる「アカシックレコード」と彼らの働きとを明確に区別する役割を担い、単に神智的な霊的探求者が読み手となる「宇宙の静的記録層」たる図書館を創造と破壊を司る「動的言語層」たらしめているのだね。恐らく疏白が元いた「本部」にあたる図書館や講堂にいるほうの管理人が臨空の時間を刻んでいるらしいあちらの図書館の管理人代理に「定期的に電話を寄越してくる人物」なのではないかな?
本部たる図書館には各世界へと繋がる「分岐点」なるものが存在し、そこに突として「新しい大きな裂け目が現れた」ことは原因不明の異常事態であるかのように語られているが、これは本来アスタの片目となり「氷雪の刃で消し去られるべき全ての世界の上に掲げられる」はずの秘密の塔「預言者のレイ」が、ジャスミンによる改ざんを暴き花木集の中に閉じ込められていた幻影のレイもとい悪夢に囚われていない本体を取り戻して「神の決定を覆す」ということをしたために、まるで永遠の郷から「ネア」という新たな世界が創造されたそれに限りなく近い現象が起こっているのではないかと思ってる。重複になるがネアではウルタマの源流で怪物と化していたふたつの世界を断絶するための法陣が本編においてはあの長恒山の巨大ワンダラーに該当するのだろう。
相棒の十七がなぜかその「新しい大きな裂け目」にはしゃいだ声を上げながら飛び込んで行き「神言者を見付け出した」ことでついに「使命が始まる」らしいことを告げられた疏白は「重々しい口調」の管理人から「半ば押されるようにして」同じ裂け目の中に入ることになったのだと言うが、もちろん図書館そのものには「少しずつ秩序が戻ってきた」とは言えこちらの管理人はどうやらその裂け目の向こうがこれまでとはどこか異なる「面倒ごと」であることをなんとなく悟っている様子である。
チイとユンキ
裂け目の向こうは本編時間軸2035年の9月頃となっており、この時空の神言者様は同年「臨空大学医学部」に入学したばかりであり「3年後に学部移転にともなって天行市へ向かう」はずだと疏白は言うのだけど、なるほどレイはやはり彼女の傍で彼女のために医者になることを志し本当なら自分ひとり戻ってきた臨空市を二度と離れない心積もりでいたんだな。ところが天行計画の完遂と共に彼のいる医学部だけが突然天行市内へとキャンパスを移されたのはさしずめ彼の「コア心臓介入医療法」がEVERに目を付けられていたといったところか(舌打ち
疏白はうっかり頭を打って気を失っていたところを巡回中のハンターに保護されて、搬送先の病院では騒がしい子どもたちに囲まれながら目を覚まし、診察医にはそこが災変直後の不安定な磁場とワンダラー被害により交通網の麻痺した「臨空市からは何千キロも離れた場所」であることを聞かされていっそ「もう一度気を失ってしまいたい」ような気持ちにもなるのだが、実はその病院とは周辺エリアの「警報」が解除されるまでそこに仮設された移動型の診療所であり、さらに「緊急医療団体」から派遣されてきた男女二人の駐在医師が「神言者様のお母さん」である「チイ」と「お父さん」である「ユンキ」なのだと判明したことで、十七がここへ来たのは決して「不思議なことではなかった」と腑に落ちる。
レイのご両親は去年の彼の誕生日に「国際便で毎年プレゼントを送ってくれる」ことや離れていても可愛い息子との「ビデオ通話を欠かさない」こと、さらに幼いレイの人生にこれからも数多くの出会いがもたらされるよう考案された「祝福のおまじない」なんかがエピソードとして語られるので「きっと愛情深く思いやりに溢れた親御様なのだろう」とふんわりイメージしていたが、想像していたよりもっと寛やかでたとえばそこにいるだけで彼らの中に満ちる幸福が周囲にも波及していくかのようなとても存在感あるご夫婦だったのだね。
チイが「可愛いでしょう」と自慢げに見せてくれたレイ専用の写真フォルダに並んでいる「両親の真似をして左右の拳を頬に当てながら猫のポーズをする5歳のレイ」や「巨大カボチャの上に乗せられて困惑する11歳のレイ」からはひたすら愛されて育っていく息子と見守る母親の母性的な包容力が伝わってくるようであり、あるいは怒ったニンジンのイラストがプリントされたトレーナーを着せられ犬の顔のリュックを持たされて釈然としない息子の姿を思い出し太ももを叩いて笑うユンキからは父親らしい愛情表現の中にからかい屋で遊び心ある一面が垣間見られるようである。
読者として客観的な記述の中の神言者を読み解くことに専念してきた疏白は長らくレイを「背が高くて冷たくてカチカチに硬い雰囲気の男の人」だと認識してきたため、写真の中で生き生きと成長していく彼らのレイがあまりに「小さくて可愛くてふわふわしている」ことに衝撃を受けると同時に世界には巡る季節や時間の経過があることを初めて「実感」すると言うんやが、まるで「機構」のように世界の滅びを淡々と記録する観察者たる疏白を敢えてここへ導いた十七には何やら「レイがこの世界を愛したがっている」ことを伝えたい思惑があったかのようにも見えるよな。
キンモクセイの林
それから数週間が過ぎ、周辺地域のワンダラーが殲滅され「警報」が解除されるのを待ってチイとユンキは新たな派遣先へと出発の準備を開始する。ずっとここにいて欲しいと寂しがる子どもたちへふたりは「プレゼント」を用意しているのだけど、包装される前のずらり並んだ品物たちを前に夫婦は「相変わらず研究室にこもっている」というレイにビデオ電話をかけ「他の子たちにあげる前に一番好きなものを選ばせてあげる」と言うのよね。これは「贈られてくる荷物の中に土地土地で購入された特産品を確認して初めて両親がどこで活動していたのか知ることもある」なんて言いながら今でも彼が大切にしている親子の習わしである。
そんなやり取りを傍らで見ていた疏白は「どれでもいい」とつれないレイの反応に「予想通り」だと静かに頷くも「人には『一番好き』なものがあった方がいい」というチイの返答にはしばらく首をひねってる。どの世界の物語も興味深くどの世界の結末も同じだと感じられる疏白には「何かを特別に愛する」感情が唯一理解し得ない心のありようであるらしい。
交通網が復旧し、ようやく出発の朝が来ると、チイとユンキは「ある人を探しに臨空市へ行く」と言う疏白のためにリュックいっぱいに詰まった旅の必需品あれこれと旅費を工面してやり、さらに「臨空に着いたらこれを参考にするといい」と言って以前ひとりで両親の元へ旅行をする際にレイが持ち歩いていたらしい「古い地図」も一緒に持たせてやることにするのだけど、いかにも神言者様らしい端正な筆跡で正確なルートや各ポイントに必要な情報が書き込まれているというそれがどういうわけか「最後は最寄りの駅をひとつ乗り過ごし徒歩で目的地へ向かう」ことを示しているのに気が付く疏白、緻密な思考回路を持つ完璧な存在であるはずの彼がどうしてそんな非効率的な行為に及ぶのか心底理解できないと考え込んだりもする。
それは去年の秋の初め頃、両親の引っ越しで一度臨空を離れたレイがひとり戻って来た際に「うっかり列車を乗り過ごし」一駅歩いて帰るために立ち入った林なのだと言い、またそれまで趣がないと指摘されることが多かった学校の作文にふと思い立ちその時に見た「秋だけの特別な色と匂いを感じられる金色の小さな花」について書いてみたところ初めて「優+」の評価がもらえた、なんて思い出の場所でもあるのだそう。
この頃のレイは突然制御できなくなったEvolの暴走や黙って離れてしまった彼女のことで頭がいっぱいだったのか恐らくは「美しい景色に気を取られて」乗り過ごしてしまったわけではなかったのだろうけど、今はすっかり「静謐な秋の空気を楽しむために」毎年そうして迂回してちょうど満開のキンモクセイの林の中を歩いているのだろうことが伺える。
最後は「あなたも行ってみるといい」と勧められ見送られた疏白が「臨空大学駅」到着の車内アナウンスに僅かばかり「乗り過ごすべきか」考えを巡らせたようにも読めたけど、今は満開の花も冬が来れば全て土へ還り枝は丸裸になる、春夏秋冬の輪廻は無数繰り返されるも必ず世界が「最後の変化に要する活力」を使い果たす時が来て、そこへ躊躇いなく終止符を打つことができる神言者様が降臨する、それは本で読んできた全ての世界の結末であり、改めてそのうちのどこか一箇所に特別目を向けるようなことは「意味のないこと」であると結論、そのタイミングでリュックから顔を出し一声鳴いた十七が彼を留まらせようとしたのか動かそうとしたのかは判然としないものの、疏白は「ドアが閉まる直前に」電車を降りたと書かれてる。
プラットホームに立った疏白は最後にキンモクセイの林の方を今一度振り返って見るけれど、これは「神言者様にいずれ滅びる運命にある四季を捨てさせ二度と列車を乗り過ごさせないこと」こそが自分の使命であることを強く念じてのことなのだろう。ペンが記録したのは秋の景色だが紙に刻まれたのは離別、あくまで「この旅はここまで」だと断ずる神の奉仕者たる疏白が強調されたエピローグだなと思ったよ。
本編へはここから5年間図書館でレイを待っていたが一向に戻らないため痺れを切らせて「7年前の約束」とやらを取り付けに動き始めてしまった、という経緯なのかな? 個人的にはチイとユンキが「借用書」の代わりに「良かったらレイに届けてあげて」と疏白に託した贈り物、添えられた「父さんと母さんの『一番好き』はいつだってレイ」のメッセージカードを目にしてなお「一番好きを忘れさせなければならない」任務を帯びた彼が「本当に無事に届けてくれたのか」ちょっぴり気になってしまったが、「一滴の水のような恩にも湧き出る泉のように報いるべし」なる君の矜持をわたしは信じているからな?←
無神論者と真の神
記事冒頭でちょろっと触れさせてもらったのだけど、わたしは今ストを読んで現世レイが「人」として生まれてきたのは罰や贖いのためではなく今度こそ彼女と成就するために自ら望んでチイとユンキのところへやって来て花を愛し世界を愛することを学び「自分自身の決定によるユートピア」をついに実現しようとしているさなかであるかのように見えました。
それを踏まえて改めて彼の物語をもう散々語ってしまってるグノーシス主義思想的に解釈してみたとき、この世界観においては「無神論者」なるものが同時に「真の神」となり得る「パラドックス構造」になっているのではないかと感じられたため、物凄くつまらない個人的な見解ではあるが記録しておこうかと思う←
本題に入る前にまずは前提としてキリスト教の聖典「聖書」には今スト神言者の「カチカチ」な側面を内包する神と「ふわふわ」な側面を内包する神とこの相反する両側面を媒介する「カチふわ」な神とを平たく言えば全員同一人物であると定義する「三位一体の神」というものが登場します。カチふわの神はカチとふわとを「人間の中で共存させるもの」という意味で「インマヌエル」「受肉した神」「有限の中に宿る永遠」などと形容されたりもする。こちらがいわゆる「正統」と呼ばれる聖書解釈のおおよそになりますが、この軸で言えばレイは「子なる神」に当て嵌まる存在です。
| 役割 | 特徴 | |
| 父なる神 | 世界を律する絶対者 |
創造・秩序・権威 (カチカチ) |
| 子なる神 | 人と共に生き、苦しみ、愛する | 受肉・贖罪 |
| 聖霊 | 癒やす力、人の内に宿る |
慈悲・導き・共感 (ふわふわ) |
で、上記カチカチの神とふわふわの神を「完全なる別もの」であると解釈し「いやカチカチの神って結局無慈悲に滅びをもたらす世界への愛を欠いた存在じゃないか?」「もしかして偽の神なんじゃないのか?」と展開するのが「グノーシス主義」の始まり。正統神学のように受肉だとか贖罪だとか神の働きによってふわふわがもたらされるのではなく人間がそれぞれにアグノーシアから目覚めることでふわふわの境地に達することができる、みたいな思想であり、これが宗派として正統でないのは「人の力が神の力に及び超える」方へと発展することが危険視されるため。ただし仮にこれが描かれていたとて作品が神学的な挑発になるわけではありません、念のため。
| 役割 | 特徴 | |
| 偽の神 | 偽りの創造神 |
物質・冷たい秩序 (カチカチ) |
| 神言者 | 半神半人 | 冷たい秩序の上に立つ存在でありながら散る花を愛でることができる |
| 真の神 | 閉じ込められた人の魂が偽の世界から目覚めたときに到達できる場所 |
霊的・温かい光 (ふわふわ) |
上記はグノーシス的な偽の神と真の神の間に今ストにおける神言者レイを加えてみたの図。厳密に言えばまったくの同義とういうわけではないが、グノーシスで言う「真の神」とはそれこそ臨空の図書館で「無神論者」を待っている管理人代理の彼が言う「誰もが神による決定ではなく自分自身の決定によりユートピアを実現できる世界」に限りなく近い概念だと思います。神言者は半神であるがゆえに「神の道具」であり「神の秩序」に従い「神の言葉を告げるもの」にしかなれなかったはずなのに、半人であるがゆえに「何かを特別に愛する」感情を持ち「自分自身の決定」を思い出し「神の決定を覆す」ということを成し得たわけだよね。人であるからこそ神の秩序の外へと出ることができたわけです。
仮にグノーシス的な偽の神の持つ「冷たい秩序」なるものが深空における「物質的永遠を求めることで必ず終焉がもたらされる世界の法則」に該当するならば、レイは神よりもむしろ人として「無神論者」であり続けることで「有限から生まれる愛が永遠に循環する世界」ないし「誰もが自分自身の決定によりユートピアを実現できる世界」をもたらし得る真の光の代弁者、つまりグノーシスで言うところの「真の神」になり得るという枠組みになっているのではないかな。これが「神の決定を覆すことは人にしかできないがそれが本来の神(の望む世界)への帰還になっている」という逆説的なメッセージであると感じられましたって話です。
うーんくどくど語った割に全然上手いこと言えた気がしないけど、一旦そんな感じ(殴