空に堕ちる
空に堕ちる

恋と深空を宗教思想史オタクがのんびり考察しています。

ネタバレを多分に含むうえ、新しく開放されたストを読むたびに考えが変わるため我ながらお門違いなこともたくさん綴ってあるのですが、プレイ記録も兼ねているため敢えてそういうものも全て残したまま書き進めております(土下座

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癖になる痛み

ホムラの放つ得体の知れない感が決してグロテスクなものではなくどこかセクシーで魅惑的なものとして表現されている物語だと感じました。個人的にはめちゃくちゃ好きですねぇ。

本編7章を読んでリモリア人が本来「人魚」の姿をしていると分かったとき、マーマンであるホムラくんには当然のように「海の王者」のようなものを連想し、その印象のまま「海の怒り」や「海に迎合させる」といった勇ましい言葉を用いて妄想話を長と語ってしまいましたが(恥

今ストはこれを覆さんとしてか、冒頭から「先生は島国の王族ご出身との噂もありますが本当ですか?」と迫る記者に彼は「アトランティスとか?」なんて冷ややかに返答していましたね。
そして敢えて対比させるかのように、全篇を通してホムラは常にゆったりと、たおやかに、周囲が思わず心を奪われてしまうような魅力、色気、そういうものを無意識的に振り撒いてしまっているような描かれ方をしています。

こうしてわざわざピックしてるので本当に王族は王族なのかも知れませんが、モチーフとなっているのは恐らく古代ギリシャにおける海神「ポセイドン」のような雄しいものではなく、むしろ19世紀半ば頃の西洋の視覚芸術における「セイレーン」みたいなものだったりするのではないかなぁと。

セイレーンはそれこそギリシャ神話では「鳥人間」なので、アニメやゲームでは翼が生えてるようなキャラとして登場することも多く意外かもですが、たとえばルネサンス初期の「ラファエル前派」という画派の人たちはセイレーンを「海に住むとんでも絶世美女」として狂ったように描き残しまくっていたりします。
それは海水に浸っていると人魚の姿なんだけど船に上がった瞬間下半身も人間のただの全裸女子となり、美しい姿態、美しい声で男たちを惑わせ、その恍惚とした表情、瞳、「あなたは私のもの」みたいな目つき、手つき、そういうものにみんなどうにかなって、「海に」ではなく「欲に」溺れておかしくなってしまう、と解釈されていました。

レーウィンが「1年経っても死ななかったこと」が強烈に残り過ぎていたわたしは2章でも7章でも人魚の血肉を喰らう「八百比丘尼」を引き合いに出してしてしまいましたが、八百比丘尼の人魚はどの文献でもまじで薄気味悪いきも過ぎブスのばけもんなので(やめとけ、こういう魅惑的なホムラくんの姿とは似ても似つかないと思います。

つまりホムラはある時ただうっとりと痛みに浸っていたかっただけ、キャンバスに赤を塗り重ねて視覚的にも臭覚的にもその愛おしい痛みを感じてみようと思い立っただけ、もちろんゾクっとするような行為ではありますが個人的には一種の官能表現だと感じたし、そういうものに勝手に惑わされ、たぶらかされ、溺れ死んでしまう人がいる、っていうキャライメージなんじゃないかな。根本は。

帰国の目的

こちらのお話では本編の物語が始まる約半年前の夏頃、突然帰国したホムラが臨空市で最初の個展を開催し終えてからの数ヶ月間が深掘りされています。

ホムラはなにやら怪しい男に主人公の身辺調査を依頼していたみたいで、帰国早バーの個室でその男と落ち合い調査報告を聞くのだけど、会話の内容からこの男は恐らくN109区内の多くの者たちがすでに各所から主人公を狙っているであろうことを知っていて、「彼女の周りにはとうに見えない糸が張り巡らされている」「ホムラ先生が今から参入するのは遅い気もする」などと意見している。

それについて一切動じる様子を見せないホムラもまた主人公がどんな理由でどんな人たちに狙われているのかは承知しているようで、むしろ自分はさらに以前からその渦中にいる、それよりも今不用意に彼女に近付けば今度は自分が狙われることになるかも知れない、とも考え至っている。

本編7章ホムラが狙われることになったのは「彼らの欲しいものに繋がる秘密が絵の中に隠されていると気付かれたから」だって言ってたけど、実際は不用意に近付く程度で狙われることになるんだな?
絵の秘密がエーテルコアに近付くための足掛かりとかそんなぬるい話ではなく、そもそも彼は「エーテルコアと一緒に狙われるような存在」ってことなのかも知れん。

ここまで来たのだから焦る必要はない、身の安全を最優先し万全を期して臨もう、最適なタイミングを待とう、彼女との件はゆっくりと時間を掛けて清算していきたい、と自分に言い聞かせるホムラ。

最後は調査報告の資料をファイルごと燃やし、また依頼した覚えのない「ごく近距離で隠し撮られた彼女の写真」については「余計なことはしなくていい」と釘を刺してからバーを後にしました。

臨空大学

とは言えその彼女が今は「臨空大学に通うごく普通の学生」であることを知ってしまったホムラ。

新進気鋭の天才画家にはさまざまな団体や企業より取材の申し入れやその他仕事の依頼などが殺到しているのだけど、その中から「臨空大学アートセンター」の講演依頼だけを引き受けることにしたホムラは、芸術学部の特別外部講師として早速彼女の大学に足を踏み入れてみる。

彼女はこの学校のどこかに居る。もしかしたら自分と数百メートルの距離に居るかも知れない。ここに残されたいくつもの足跡の中には重なり合ったふたりの足跡もあるかも。高揚した気分を抱きながら透き通った水底を歩くように人の行き交う並木道を抜けるホムラ。
学内掲示板に彼女の写真を見付けると、記憶の中の面影から幼さだけが消えたその笑顔を眺め、懐かしさに浸る。
声を掛けてきた女学生に「この学部生は今どこで講義を受けているのか」何気なく尋ねると、こっそりと教室までの距離を測り、焦らずとも着実に近付いていることを噛み締めて、逸る気持ちを落ち着かせる。

そうして過ごすうち、突然心臓の先端から下に向かって広がっていく「辛さ」に襲われるホムラ。「この過程は間違いなく苦痛ではあるが同時に病みつきにもなる」らしい。

これが一体何なのか今ストでは明かされていませんが、本編7章主人公の言葉に反応して胸に魚の尾ひれのような赤い紋章が浮かび上がり一瞬だけ苦しそうに見えたあのシーンを思い返すと、ホムラにとっては恐らく主人公との深い繋がりを「知覚」として感じられるもの、もちろん「苦痛」ではあるがそれ以上に心の高まりや強い悦びを伴うもの、そういった意味での「病みつき」なんじゃないかとは思います。

5話では学内のカフェでたまたま後ろの席に座った女学生グループの中に偶然主人公が混ざってて、たとえば「シーソルトチーズケーキ」の話題で「海」や「貝殻」なんて言葉が彼女の口から紡がれようものならその発言ひとつひとつのアクセント、声のトーン、テンポ、話し方に聴き入って遠い昔の記憶を呼び起こそうと努めるのだけど、同じシーンで彼女が「リモリアの講義には興味がなさそう」だと感じると、「スパイスが足りなければ辛味も平凡なものになる」と趣をなくし、席を立ちカフェを去ってしまったりもしてるので、もしかしたら心臓の痛みはホムラ自身が彼女を近くに感じるほど強く苦痛を伴うものになり、離れれば弱まるといった具合なのかも知れません。

「辛さ」

エピローグでは講師ホムラがにぎやかな芸術学部生たちに囲まれながら「絵画の授業」の準備をしているという一幕が描かれる。

画板に囲まれるように教室の中央に座るホムラはただ赤い絵の具の入ったガラス容器だけを持っていて、学生たちは教室に僅かに漂う匂いからこれが「唐辛子」から作られた絵の具であることを悟り感嘆の声を上げるのだけど、ホムラはただ「植物の色素を使って絵を描くのは珍しいことじゃない」とだけ告げ、ひたすら手元の赤い絵の具に意識を集中させている。

容器に直接指を入れ、絵の具を手に伸ばし、匂いを嗅いでみて、傍らに置かれた真っ白いキャンバスにそれを塗りつけていくホムラ。

彼は物語冒頭から「辛さ」というものが「味覚」だけではなく「知覚」も伴うものであること、舌先ではなく皮膚からも感じることができるものであることを繰り返し反芻させていたが、最後は「色も知覚のひとつであり目だけでは判断できない」「見る生物が変われば違う色にも見える」と論じ、唐辛子のかたまりのようなそれを乗せた指先がひりひりと刺激されるのを感じながら、さまざまな濃さを描き出すように細やかに赤を重ねていった。

学生たちはこれが天才の感性なのだと感心し、「先生から見るとこれは赤じゃないんですか?」と尋ねるのだけど、ホムラは「君たちに見えているのは赤色だけかい?」と聞き返し微笑むだけ。

恐らくこうして彼の中では主人公を象徴するもののようになっている「痛み」を五感で味わいながら描かれる絵画にこそあの「歌う少女の夢」が宿るのだろうし、青く透き通る海の果てに暗い赤が描かれたようなあの油絵は、見る者によってはどこまでも青いだけの海であり、また赤いだけの海でもあるってことなんだろう。

ただ、このエピローグの本当にすごいところはそんなことは一言も書かれていないのにどういうわけか「もしかしてホムラはその指先から自分の血を少しずつ絵の具に混ぜながらこれを塗っているのではないか…?」と読み手に勘ぐらせることができるところだと思う。

もちろん本編を読んでいればホムラの血が何か特別なんだろうことはなんとなく察しているし、彼が描出において何やら「赤」にこだわっているらしいことも知っているからなんだろうが、それを差し引いたとしても、単純に「痛み」と「赤」の単語から連想させるだけじゃなくて、たとえば原料である唐辛子の刺激臭が「充満している」ってわざわざ強調されると「これで生臭さもカモフラージュできるよな?」って思いたくもなるし、心臓の痛みが先端から下に向かって広がっていく「過程」であるなんて言い回しも、ひょっとしたらこの痛みとは血液が動脈から全身に広がっていくように行き渡る「過程」を経て最後には指先から自然と流れ出てくるものなんじゃないか? みたいな、考察の幅が物凄く広がる表現なんだろうと思う。

今回わたしはあれこれ深読みせず素直に読みましたが、正直どう解釈されることを前提に書かれてたとしても、こういう一見何でもない行動描写の羅列から人物の持つ独特の雰囲気や性癖みたいなものを読み手側が構築していくような作品、個人的にはめちゃくちゃ好きですねぇ。

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