『結晶感染』
誰かに会うのが苦しい。僕はついに面会の拒絶を担当医に要請した。見舞客にまで陽気を装って冗談を言う気力はもう残っていなかったのである。
前回の手術で胸膜が胸壁に癒着してしまった。次の手術では今度こそ肺を片方まるごと摘出することが決まったが、何よりまず、その癒着を剥がす際の大量出血がもっとも危険なのだと前に聞いたことがある。医師たちは口では確信ありげなことを言うが、喉の奥につかえるわずかなためらいと目を逸らす回数で僕には分かっていた。
次の手術はきっと成功しない。第一、僕はすでに自分と同じ状態で手術室に運ばれそのまま病室に戻らなかった患者を目の当たりにしている。
とは言えそうして全身麻酔で眠っている間に死ねるならいくらかマシだとも思った。この奇病による死者たちの中には思考や自己認識をじわじわと奪われていくような者も、突然臓器が破裂して見るも無残な姿に成り果てる者さえもいるからだ。
検査室前のデイルームに不思議な少女がいた。
彼女は決まっていちばん日当たりのいい窓際の席にひとり収まり、いつも同じ角度に首を傾けて小さく歌を口ずさんでいるように見えた。
あるとき思い切って斜向かいの席を陣取り、受診票の挟まれた薄緑色のクリアファイルを丁寧に整理するふりをしながら耳をそばだててみたこともある。しかし彼女の唇から漏れるはずのメロディは驚くほどかすかで、とうとう僕の耳に届くことはなかった。
代わりに僕の目を捉えて離さなかったのは少女の右肩だった。
そこには青黒く発光する小さな角のような結晶が皮膚を突き破ってそびえ立っている。それは日光を浴びれば精巧なガラス細工のように眩くきらめいて、彼女という存在を完成させるために神がそっと留めた飾りピンのようにも見えた。
少女はその痛々しくも美しい突起を疎むどころか宝物に触れるように愛おしげになぞった。
根元に添えられた指先はゆっくりと這い上がり、もっとも鋭い先端に触れ、にわかに止まる。
衣服の隙間から覗く清らかな白肌と、そこを押し広げるように生えた禍々しい黒い輝き。僕は密かに息を呑んだ。
それは一見、目を背けたくなるような残酷な悲劇だ。でも、僕はすでにその結晶を取り去られた少女の姿をうまく思い描けなくなっていた。
それから僕は、検査のない日にもデイルームに立ち寄り、少女の隣の席に腰掛けて他愛のない世間話を交わすようになった。
会話の端々で見せる彼女の反応はどこか達観していて、同世代の少女たちと比べれば随分と大人びた印象だった。自分の身体を侵していく病を恐れるどころかすべて受け入れているかのような、どこか冷ややかな、それでいてひどく艶やかな空気を纏っている。
僕は少女の目を見るのが好きだった。
ある角度から見れば感情がなく非人間的で、また別の角度から見れば哀しみをじっとたたえたような目になる。
ある日、ようやく少女の口から聴いたことのないメロディが流れた。
幼い頃に聴いて育った子守歌か何かだろうか。懐かしいような、けれど二度と戻れない場所を想うような繊細な旋律が静かに紡がれる。それは昏い呪文のようでもあり、祝福の賛歌のようでもあった。
少女の視線は皮膚を突き破る右肩の結晶へと向けられている。
歌声に応えるように青黒い光がかすかに明滅するのを見て僕は確信した。彼女はやはり、自らを滅ぼすその異物を心から愛しているのだ。あるいは自身を蝕みながら成長するこの結晶の向こう側に、僕などには到底知り得ない次に向かうべき世界を見ているのかも知れない。
頭を近付けて聴き入る僕に気が付いた少女は、怪訝そうな顔をして身体を逸らし、ふいと目を背けた。
「何の歌?」
僕がそう尋ねると、少女は困ったように眉をひそめ、ただ「私の好きな歌」とだけ答えた。
その後も僕はたびたび懲りずに「あの歌を聴かせて欲しい」と申し出るようになったけど、少女は照れくさそうに「どうして?」と問い返すだけだった。
どうしてなのか、僕にも分からなかった。
ただ、歌を口ずさむ間、彼女の目が一度も僕に向けられなかったことだけが、胸の奥でじりじりと燻っているようだった。
僕はたった一度だけ、この少女が涙を流す姿を目撃したことがある。
なぜその夜に限ってデイルームに行こうと思い立ったのかは憶えていない。目が覚めて、眠れなくなり、気が付けば青白い誘導灯がともる薄暗い廊下を歩いていた。
月明かりが差し込むいつもの席で、少女は縮こまって泣いていた。
無意識に肩の結晶に触れている。それが疼痛を鎮めようとする行為なのか、あるいは染み付いた習慣のようなものなのか、僕には判断がつかなかった。
「痛いの?」
その問いは考えるより先に漏れていた。
少女はびくりと肩を揺らし、恐怖と警戒の混じったような視線で僕を凝視する。
張り詰めた沈黙が流れ、やがて彼女の指先からそっと力が抜けていくのが分かった。
「怖いの」
それは消え入るような声だった。昼間の冷ややかな美しさなど見る影もなく、そこにいるのは暗闇に怯えるひとりの脆い少女だった。
僕はどうすることもできず、ただ力のこもらない腕で彼女の肩を抱いた。
「私がいなくなったって、世界は何も変わらない」
少女は確かにそう呟いた。服の上から眺めているだけでは決して知り得なかった、すでに僕以上に痩せ細った身体を小刻みに震わせている。
僕には彼女がそんな当たり前のことに何か恐ろしいものを見ているらしいことがどうにも理解できなかった。
この場所で検査の順番を待つ時間は永遠だと錯覚するほどに長かった。
少女は手持ち無沙汰になるとその端正な指先でいつも受診票の端を小さく折り曲げていたような気がする。
それに紙コップの熱いお茶を冷ますのが下手で、よく飲み頃を逃した。僕が冷たいお茶を勧めると、口をとがらせて少しむっとしたような表情も見せた。
「熱いほうがおいしいの」
「冷まそうとしてるのに?」
「それはそうだけど」
そして小さく笑った。そんな取るに足らない記憶の断片ばかりが妙にはっきりと思い出される。
少女の時間は唐突に終わった。
病室からは何人もの泣きじゃくる声が聞こえてきたが、しばらくすると泣き声は消え、やがて看護師は遺体を運搬車に乗せて霊安室へ向かった。
翌朝、その空いた病室を清掃員は手際よく消毒している。午後にはもう次の患者が入院してくるのだ。
窓の外は晴れ、道路には自動車やバスが走り、いつも通り部屋へ運ばれてきた食事を誰もが昨夜と同じ顔で頬張っている。
検査室前のデイルームは騒がしく、窓際にはすでに別の患者が座っていた。受診票を膝に載せ、机の上には湯気の立つ紙コップが置かれている。
おかしなことは何も起こっていない。けれど、僕は何かをごまかされているようだった。
その光景に少女の歌声が重なった。
まるで鎮魂歌だ。
手術を前に、僕は今もあの少女の目がずっと背後からこちらを見ているような気がしてならなかった。
疼く左胸にそっと触れてみると、そこには精巧なガラス細工のような冷たくて眩い突起がそびえ立っている。根元には鈍い痛みと、吐き気をもよおすような異物感があった。
結局それは僕にとって恐ろしくて仕方のないものだった。けれど僕は、宝物に触れるように、痩せた指先で優しくその結晶をなぞる。
早く君に会いたい。
会ったらまず、あの歌を聴かせて欲しい。
今度は肩の結晶にではなく、どうかこの僕に。