わたしの話(ぇ
ここのところブログに作品の制作体制や今後の事業展開を心配するようなお声を複数いただくようになりました。正直に言うとわたし自身が恋と深空の制作背景に関してきちんと理解し切れていない、作品をめぐるあらゆる近況や騒動にまるでついていけていないため、そんな状態でこれらに関するご質問にあれこれ意見を述べていいものとも思い難く、本来であればおひとりずつ個別にお返事申し上げるべきところ、敬意を欠いた判断であると承知のうえ、こちらの記事をまとめてのご返信とさせていただきますことをご容赦いただければと存じます。また、今後も制作会社や企業運営についてのご意見・ご感想に関しましては、もちろんひとつひとつ大切に受け止めさせていただきつつ、個別でのお返事を差し控えさせていただきますことをご了承いただければ幸いです。
作品体験に不正解はない
早速ですが何を隠そうわたしは現在リアム副官の元奥様ヤオ氏のなんといっこ上でございます。声優コンテンツに始まりありとあらゆる乙女ゲー界隈を転々と約20年弱渡り歩いてきた過去があり、ソシャゲにおいてはいわゆるサービス終了であったりだとか、もちろんキャストの交代も、アニメ化も、舞台化も、新シーズンへの移行も、制作方針やキャラクター像の変化に伴うファン同士の摩擦も、炎上も、担降りも、実際に何度も目の当たりにしてきましたし経験もしてきました。ある界隈では古参側に立っていたことも、またある界隈では新規側に立っていたこともあります。
直近だとこういうとこに居た感じw
時には制作プロデューサーが約10年間大切に監督してくださっていた作品を自ら降板すると宣言されるような場面、本編の更新が何年も止まっていたかと思えばいきなりまるでテイストの異なる姉妹作品が爆誕しそちらへの誘導が強化され始めるような場面、運営開発がある日突然知らない制作会社に移譲される場面さえ決して珍しくはないのだと痛感し、あるいはそういう大きな変化はなくともひとつの作品が長く続けば続くほどある時期を境に制作側よりも個々の古参ファンの方が作品の連続性に詳しくなっていくという逆転現象が必ず起こり得るものだということも知りました。
制作側にはスタッフ交代もあるし企画ごとに担当範囲も違ったりするけれど、あるキャラクターを10年以上ずっと追い続けてきたファンはゲーム本編に始まり続編や番外編、ドラマCD、雑誌インタビュー、朗読劇、ライブ、期間限定イベントまで網羅して横断的に全てを覚えていたりするのでね。制作にとっての「設定資料の集合」がファンにとってはいつの間にか「長く付き合ってきたひとりの人間」に近いものになっていて、すると公式が新しい情報を足したとき、あるいは過去設定を多少整理したり今の企画に必要な部分だけを簡略化して抽出したときに、自分が長年見てきたその人物と本当に地続きなのか分からなくなることがある。
作品ファンの「好き」は常に「今後も供給して欲しい」「変わらないで欲しい」という願いと強く結び付いているもの。なんだけど、ある作品が自分の好きだった頃の形のまま永遠に変わらないなんてことはこの長いオタク人生において正直一度もありませんでした。あんなに夢中になっていたはずの作品からいつの間にか離れていた自分のことも、いつからか不満ばかりが募るようになってしまった自分のこともわたしはよく知っています。なので、きっとこの先もずっと今と同じ熱量でこの作品を好きでいられるとはたぶん言い切れません。
でも、ある作品に熱中していた頃の自分は年を取った自分が振り返り眺めてもすごくキラキラしていて可愛くてとても愛おしいのだよね。あれほど何かを好きになれたこと、心から楽しめたこと、同じものを好きな人たちと同じ場所で一緒に喜んでいたことは、人生の幸福な実感として一生記憶に残ってる。それは単純に「今もその作品が好き」と言うより「好きだった時間そのものへの愛情」が不満や喪失なんかよりずっと強く長く残る感情だからなのだろうなって思います。不思議ですよねぇ。もやもやしたことは確かにたくさんあったのに、降りる切っ掛けになった悲しい出来事さえあったはずなのに、今はAGF物販に朝から並んでいた時間や幕張でペンライトを振っていたあの瞬間の気持ちの方がずっと鮮明に思い出せる。だからこそ、わたしは今このタイミングで作品から受け取った「好き」を精一杯大切にしたいなって思います。
こんな風に言うと置かれている状況によって現在作品から「好き」よりも「不安」や「不満」を受け取っていらっしゃる方は批判の声を封じられたような気持ちになるかも知れません。これおばちゃんたちの時代には「自治厨」なんて通称があったのだけど、最近は「学級委員さん」と揶揄されるようになったんですね(かわいい
わたしは周囲が「好き」を発信しているからと言って自分も同じ温度で喜ばなければならないわけでは絶対にないと思っています。あるいはみんなが不満を口にしているからといって自分も作品を疑わなければならないわけでもない。逆に平穏な空気を壊したくないからと懸念や違和感を飲み込む必要もない。自分が作品から受け取ったものは自分だけの「作品体験」であり自分だけの事実なので、誰かがそれを盗み取って集計して「正しい側」と「間違った側」に分けることなどできるわけがないと思うのです。
制作体制や今後の展開に「不安」を感じたのであれば今はそれが自分の作品体験における「正解」に違いありません。あるいは受け入れられなかった人も反対に楽しみになった人もまだまだよく分からない人もそれぞれがそれぞれの正解をそれぞれに持っている状態です。これって「作品に熱中しているから」こそ起こる反応・抱ける感情なんですよ。いつか年を取った自分が振り返ってみたときにどれも必ずキラキラして可愛くて愛おしい自分になっているはずのもの。わたしは不安や不満を口にしていたあの自分も夢中でペンライトを振っていた自分と同じくらい大切な自分です。
たとえこの先いつか冷めたり失望したり自分から作品を離れる日が来るとしても、未来の自分はきっと今ここで泣いたり笑ったりしている自分まで「見る目がなかった」「無駄だった」と処理したりしないと断言できます。それらを全部通り抜けたあと、最後まで沈殿して残るものが「心から楽しかった」「大好きだった」感情であると知っているからです。
似てるけど違うもの
こうしてオタク人生を振り返ってみたとき、わたしは自分が間違っていたかも知れないと感じている箇所がひとつだけあります。それは「作品に向き合うこと」と「作品をめぐる誰かの解釈や憶測に向き合うこと」は決して同じではなかったということです。
作品を受け取って嬉しくなる、新展開に期待する、公式発表に傷付く、キャスト交代に戸惑う、そこから事情を推測したくなる、ここまでは全て「作品と自分が一本の線で結ばれている状態」です。作品や公式の動きが一方にあり、これを受け取る自分がもう一方にいる。受け取ったものが喜びや楽しみであっても、あるいは怒りや失望であったとしても、その感情は作品との直接的な関係から生まれているもの。後から顧みてみればどれも大切な自分の「作品体験」だったなと心から思えるものになります。
でも、誰かの解釈や憶測に向き合い始めた瞬間「一本線」の構造は少しずつ変化し始める。作品と自分を繋ぐ直線上に「自分ではない誰かの作品体験」が入り込んだ状態になっていくって言うのかな。そしてそういう誰かの結論をさらに別の人が要約したり、反論したり、拡散したりされている方へ視線を傾けるほどに、作品と自分の間にはもっと別の誰かの反応、解釈、憶測、集団感情とさまざまなものが挟まってどんどん距離が遠くなる。そうなると自分が今「何に悲しくなったのか」作品から受け取ったものに傷付いたのか誰かの声に影響されたのかとても見えにくくなってしまうんですよね。
もちろん誰かの反応や解釈や憶測に触れることで作品をもっと好きになれることもあります。かく言うわたしも現地イベントで「年月の違うファン」や「熱量の違うファン」と結ばれることが結果「同じ作品を愛する人の力に励まされる体験」になることの方が圧倒的に多かったです。誰かの作品体験が自分の作品体験をもっと深めてくれるとき、その言葉は作品と自分を結ぶ一本線を「補助する線」になってくれているようなイメージ。ところが誰かの断定によって「自分が実際には感じていなかった失望を感じるようになった」なら、その言葉はいつの間にか作品と自分を結ぶ線の構造を変えてしまうものになっている。違いは最後に「ではわたしはどう感じたか」へ戻って来られるかどうかというところにあるのではないかな。
これは人間関係や恋愛にも似たことが起こり得ると思っていて、たとえば自分が大好きな相手と正面から一対一で向き合っているとき、その相手と幼馴染みであるとか元恋人であるという第三者が現れて「あの人は本当はあなたを大切に思っていない」「あの態度には別の意図がある」と密告してきたとする。もし自分がその密告を受ける前から相手に懸念や違和感を感じていた場合その一言は自分の体験を「補助」するものになり得るよね? あるいは「あの人は本当に誠実な人」「あなたのことを本当に愛しているみたい」だと訴えられたとき、自分が同じように相手から誠実さや愛だけを感じ取っていたのならそれを裏付ける証言にもなると思う。
ただし自分が長らくその相手から不誠実な態度や疑わしい言動を感じていた場合、周りの意見がどれだけその相手を擁護・賞賛するものであっても「自分が感じた違和感や懸念」は「みんなの解釈と違うから」と言って決して揉み消したり飲み込んだりすべきものじゃないはずだと思う。もしくは自分の視点からその相手に疑わしさがひとつも見られなかったにも関わらず誰かの一言によって生じてしまった不安は自分と相手を繋ぐ一本線が「第三者の視点を介してしまったこと」により受け取るものが変化してしまったとも言える。
もしもわたしが「過去のわたしへ」唯一助言してあげたいことがあるとするならば、それはあくまで「作品と向き合う」ということを大切にして欲しいという願いかも知れません。もちろん他のファンと一切交流しないで欲しい噂を一切聞かないで欲しい孤独に作品と向き合って欲しいという意味合いでは全くなくて、ただ自分の作品体験だけは他の誰かに預けたり委ねたりしないで欲しいという願いです。
たとえば公式発表に傷付いたならその傷は自分のものとして大切にして欲しい。裏事情を想像することも自分自身の思考なら作品との関係の一部にできる。でも誰かがこう言っているからわたしはこう思うべきだとか、自分よりも作品に詳しい人がこう断定しているからこの展開は失敗なのだとか、フォローやいいねがたくさんあるからこの批判が正しいはずだとか、そんな切っ掛けで自分自身の作品体験を疑う必要はなかったんじゃないかなって思います。少なくとも最後に「ではわたしはどう感じたか」へ立ち返ることができていれば抱かずに済んだであろう恐れや不安には心当たりがあるし、今にして思えばそれに思い悩んでいた時間は少しもったいなかったような気もします。作品そのものだけではなく「作品を受け取る自分の場所」をもっと大切に守ってあげても良かったかも知れないなと。
真偽は明らかにならない
裏事情を想像することも時には自分の大切な「作品体験」の一部だとは言い切ったものの、悲しいかな「受け取り手からは確認できない話」の多くが「結局最後まで確認できないもの」であることもまた現実だったりするのですよね。運営が会議録や契約書を公開することはまずないし、スタッフの異動理由や売上目標や誰の意見が企画に影響したか明かされるようなことってほとんどない。制作の裏側にある「真偽」を追い続けることはたぶん「答えに辿り着く」ことではなく常に「答えの存在しない場所に自分の感情を置き続け消耗する」ことの方へ繋がっている。
そもそもソシャゲとは映画や小説のように完成品を買い切るタイプの作品体験ではありません。未完成品が常にアップデートされ続ける運営型のサービスとして、ユーザーが抱く「ある作品を育てていく過程に参加している感覚」までがセットになった作品体験です。ガチャ確率、育成負荷、課金額、イベント頻度、キャラクターの扱い、シナリオ、UI、不具合対応など、運営側も「ユーザーの反応を受けながら調整し続けるシステム」を始めから組み込んだ状態で作品をリリースしているわけなので、ユーザーは常に「声を上げれば変わるかも知れないサービス」を享受している状態。もちろん実際に寄せられた声が改善に繋がることもあると思います。でもこれらはあくまで「受け取り手から見えている景色」なのであって、裏側で何がどこまでどこに採用されるのか「真偽」が検証できる形で明らかになることってまずありません。
この構造が「制作の裏側にある真偽を憶測したくなる気持ち」の始まりなんですよね。映画や小説には「この展開を変えて欲しい」という受け取り手の要望が作品に反映される経路が存在しませんが、ソシャゲにはユーザーの声を制作へ届けるための窓口が始めから存在しています。けれどその声が社内のどこへ届き、どのように検討され、何が採用され、何が退けられたのかは決して見ることができません。しかも「変更された」もしくは「何も変更されなかった」という結果だけは見えている。すると「これほど多くの意見が出ているのになぜ反映されないのか」あるいは「この仕様変更やサイレント修正は誰の判断で行われたのか」受け取り手はその不透明さの真偽を「憶測」に求めたくなってしまう。
たとえば月額会員や公式ファンクラブ、ランイベ上位者など課金実績に応じた上位顧客向けサービスのように一部のユーザーだけが限定コンテンツや専用窓口を利用できる界隈では、そうしたユーザーの声が一般ユーザーよりも公式へ届きやすく重視されやすいという認識は広く存在します。あるいはファンが企業の株主となり株主総会で経営陣へ作品の方針について質問する光景が注目されるようなジャンルもありました。公式の上層部へ限られたファンが直接意見を伝えられる制度があり、そこで強い意見が出た後に作品に変化が起こればどうしても「あの意見によって変えられたに違いない」と因果関係を結びたくもなります。
でも実際の経営判断には収益性や権利関係、契約、制作期間、人員、技術的制約、海外展開、すでに進行している企画などこちら側からは見えない変数が大量にあったはず。実体験に基づく昔話になるので若干特定が怖くもあるのだけど(ビビり、優待制度って声や規模が大きくなるほど対応の質が低下したりある日突然廃止になったり一般統合されたりするものなのですよね。誰の目から見ても確かに見えていたようなことでさえ実際には何も確かではなかったのだと気付かされる場面は決して少なくなかったように思います。
もしくはこれまでわたしが通って来た界隈全てに共通する「あるある話」として、ぶっちゃけどこへ行っても必ず声として上がっているのが「キャラクターの扱いや出番の格差」です。特にキャラクター間グループ間でイベントやグッズ展開の頻度に大きな差があるようなジャンルではこれが常に白熱しているような印象。ある人は「ファンクラブでもSNSでも圧倒的にAを望む声が多いのになぜBのキャラばかり優遇されているのか」と不条理を感じるかも知れないし、理由があるとすればシナリオライターやイラストレーターのスケジュールもしくは契約関係により特定のキャラを動かしたくても動かせない物理的な事情を運営が抱えているのではないか、制作リソースが限界を迎えているのではないかと推測したくなるかも知れません。またある人は運営側が持つ実際の課金データにおいて声の大きい一部のファンよりも物言わぬBのキャラに課金する層の数字が圧倒的に勝っているためではないかと考え至るかも。
ここで「真偽」を追い求め始めると受け取り手の感情はどんどん擦り減っていきます。なぜなら開示されている全ての情報を掻き集めても明かされていない部分がある限り真実には辿り着くことができないからです。ある作品に熱中するあまりもやもやを募らせていた過去の自分を思い返してみても、わたしは最終的に「作品や公式から受け取ったもの」よりも「自分自身の憶測」に心を苦しめられていたことの方が実は多かったのかも知れません。
あるいは「自分自身の憶測」が作品体験を疑う切っ掛けになることさえあります。これも簡単に特定されてしまいそうな話ではありますが(もうやけくそw、とある制作会社が自社コンテンツ最新作のサービス終了後ファンの要望を受け入れる形でオフライン版にて本編を完結させるクラウドファンディングを打ち出したことは多くのユーザーにとって「自分たちの声が最後に聞き届けられた」忘れがたい作品体験になりました。ところがこの作品は実はシリーズもので、第一作の方は本編の更新が長らく止まったままボイスや立ち絵は使い回されイベントは復刻を繰り返すばかり、すると同じ制作会社でも別のユーザーにとってはかつて大切にしていた物語を置き去りにした「自分たちの声だけを無視し続けた」不誠実な運営に見えるかも知れません。
どちらの抱いた「制作背景への印象」も実際に作品や公式から受け取った経験に基づく自分の作品体験として不正解ではないはずです。ところがなぜ一方の作品だけが完結へ向かいもう一方の作品は長く止まったままだったのか「真偽」を追い始めた瞬間「どちらが真実を見抜いていてどちらが誤解をしているか」という議論へ発展していくことになる。
最後まで物語を届けてもらえたことが嬉しかったという作品体験も、待ち続けた物語を置き去りにされたようで悲しかったという作品体験も、本来なら「ある作品に熱中しているキラキラした自分」の一部であったはず。けれど「真偽」を求めるあまりそれらを「議論の根拠」にしてしまったら、最後は自分の「作品や公式から受け取ったもの」が「正しい側」にあったのか「間違った側」にあったのかと自分で自分を裁くことになってしまうんですよね。
どこまでが作品体験だったのか
作品と制作背景は自分の意志で切り分けようと決めて切り分けられるものではないと感じます。作者の不祥事によって小説の一節が以前とは違って読める、シンガーのスキャンダルでラブソングが嘘っぽく聴こえるようになる、そういうことは実際にあるし無理に分離させる必要もないのではないかな。もちろん切り分けて作品だけを好きでい続けられることもあるし、途中までは切り分けられていたはずがある出来事を境に無理になることもある。どちらの自分もよく知っているからこそ言えるのは、これが「どちらが成熟した態度だったかを決める指標」なのではなく「どこまでが自分の作品体験だったのかを示す指標」であるということです。
運営や制作背景への失望によって作品そのものからも「好き」を受け取れなくなったなら、それは自分が作品だけでなくその背後にいる人々まで深く信頼し、感情を注ぎ、大切にしてきた証拠でもあります。その喪失は作品体験に「誰がどんな気持ちで作っているか」そして「どんな仕方でファンへ届けているか」までが含まれていたからこそ起こり得るものだったわけです。ただ、そんなときわたしは自分が目にした制作側の発表や振る舞いに「好きでいられなくなるほど傷付いた」ことよりも、一方で「それでも好きでい続けられるファンがこんなにたくさんいるのになぜ自分にはそれができなかったのか」というところにより深く苦しんでいたように思います。
これも先に述べた「過去のわたしへ」助言したい「自分の作品体験だけは他の誰かに預けたり委ねたりしないで欲しい」という願いに通ずるものになりますが、結論どんなときも誰かと比べることで自分自身の感情を裁く必要なんてなかったんですよね。作品を好きだったからこそ作り手や届け手にもそれを大切に扱って欲しかった自分も、自分の感覚を裏切ってまで好きであり続けることを選べなかった自分も、年を取った自分が後から振り返ってみれば同じ「ある作品に熱中していた頃のキラキラした自分」の一部です。
そして現在の自分
さてここまで長々と偉そうにサム過ぎる自分語りを繰り広げてきたわけですが(つまらん過ぎw、現在の自分はどうやら年を取り過ぎてたぶん国内の乙女系コンテンツでも最近の若い「感覚」や「相場観」には全くついて行けていないのだろうことを痛感しています←
ぶっちゃけ初期乙女系スマホアプリの本編実装ペースって決して大袈裟でなく二年に一回あれば御の字くらいの超特大イベントで、待ってる間は毎年おんなじ夏祭りやらバレンタインやらをしがんでなんとか食い繋いでいたような体感だったのだよね。
あるいはこれも同胞がいらっしゃったら一発で特定されるに違いない話ではあるけども、わたしが人生でもっとも長く身を置いてきた自ジャンルはコンシューマー乙女ゲー時代からの古参ファンであれば次回作の予告から約7年が経過したある日ようやく運営が発売予定時期の問い合わせに反応したかと思えば「シリーズに詳しいスタッフがいないからシナリオが書けない」なんてことを匂わされオタク一同ぶっ倒れながらもさらに3年後満を持しての発売決定のお知らせに歓喜して泣いているような界隈だったりするもので、いやいやそんな「お芋ばかり食べて育ったおばあちゃんに塩むすびをごちそうだと熱弁されても」と興醒めされるだろうことは分かっているのですが、まず大前提こんなに短いスパンで美麗な3Dアニメーションとフルボイスで新パートが次から次へ目まぐるしく補給されるこの怒涛の供給スピードに令和の乙女ゲー文化の技術力と資本力はバグレベルで進化を遂げているのだなと常に震え上がっている、というのがわたしの抱く恋と深空への正直な感覚だったりします。まじでちょっと前までは体力回復を待って5コマずつテキストを読み進めた先にやっとスチルやボイスにありつけるような世界だったんだ(遠い目
正直ここに述べてきた「ソシャゲ昔話」はほとんどが日本国内を中心としたメディアミックスに限られています。つまりこれまで培ってきたわたしの経験則をそのまま世界規模の恋と深空へ当てはめられるとは思っていません。もちろん中にはグローバル展開をしていて海外版が配信されているものも多くありましたし、梶くんと電話したくて飛びつくも一年で詰んでしまった某アプリは自分がローカライズ版の側だったような気もしますが(語弊、恋と深空ほどの規模で世界中に同時リリースされ常時多言語展開という形式の恋愛作品にはこれまで出会ったことがなく、そもそもわたしはこの作品がどの国のどの地域で配信されているのかさえ把握し切れていませんし、それぞれの生活圏にどのような乙女ゲー文化が根付いているのかも分かっていません。とにかくあらゆることが未知で全く何も捉え切れていないという(倒
ただ、ある地域では当然のことが別の地域では受け入れ難いことかも知れませんし、ある言葉が文化や歴史の異なる場所では全く別の重みを持つかも知れません。これだけ巨大な世界規模で展開される作品なので、今日の政治的・社会的・国際的問題や歴史、制度、価値観と接触する場面は決して避けられないのではないかな、とも思います。可視化されているものは「運営に聞き入れられたファンの声」と「聞き入れられなかったファンの声」に表面上見えるかも知れませんが、作品規模を考えれば恐らくそれだけの話ではないはず。
そしてこうした世界の複雑さや苦痛を作品体験に限らず日常や娯楽へ繋げて考えを述べることはわたしにはとても難しい。なぜなら本気で考え始めてしまったらもはや服一枚、食事一皿、電気、薬、交通、貨幣に至るまで、その背後には必ず誰かの信仰や文化の抹消、征服、搾取、差別、環境破壊、労働者の苦痛、死、そういうものが幾重にも折り重なっているからです。しかもそれらは「昔の悪い出来事」として完結したものではなく現在の流通や制度や習慣の中にも残ってる。あらゆる歴史と制度と苦痛を一続きのものとして感受してしまうとわたしは何かを買うたびに加害への加担を感じ、何かを食べるたびに奪われた生命を想い、何かを楽しむたびに「こんな世界で自分だけが楽しんで良いのか」自問自答することになる。
世界中の罪責を自分の感情の中へ流し込みながら生活を続けていくことは誰にもできないと思います。それは世界の複雑さや苦痛を否認したいからではなく、政治や社会の問題を軽視しているわけでもなく、倫理的に潔白な消費や誰の犠牲にも依存しない日常や娯楽がほとんど不可能であることを認めたうえで、自分が知り得る範囲と責任を持って語れる範囲を区別したいからです。
少しだけ正直な気持ち
この記事をここまで読んでくださる方がごく限られた少数であるという想定で、最後にあくまで「自分が作品から受け取ったもの」として「長く親しんだ声を失うことがとても悲しかったこと」と「その移行方法に驚いたこと」だけをひっそりとここに残しておきたいと思います。特定の事情や判断を断定する意図はありません(土下座
6月26日にコメントくださったレイ担さん、正直わたしも本当に残念です。別界隈の話になってしまいますが、とある乙女ゲームの10周年イベントにご出演されたときの佐藤拓也さんのコメントがわたし今でもずっと印象に残ってて、そちらの作品でも彼は「最初はめちゃくちゃ冷たいけど徐々にデレていく」ような王子様を演じていらっしゃり、これまで収録のたびに吹き込んできた10年分のタイトルコールを初年から順に聞き返してみたら「あまりにもどんどん心を開いていく過程がたった一言の声からも感じ取れて自分でもびっくりした」というようなことを話してくださったのですよね。もちろんプロの声優として意識的に演技を積み重ねていたのだろうけど、ご本人まで聞き返して驚いたということは毎回「今回は以前より何%心を開こう」みたいな計算ではない変化があったということで、なんだろう、きっと何度も語りかけるうちに過ごした時間が自然とご自身に刻まれていくタイプの演者さんなんだろうなってなんかすごく納得したのを覚えてます。
レイにもすごくそれを感じますよね。収録の瞬間には役として主人公を見つめ、何度も名前を呼び、警戒し、信頼し、もっと好きになる、その反復によって演技が単なる表現ではなく役と共に築いた関係の履歴になっていくのだろうなって改めて思います。キャスト交代が悲しいのは単に「好きな声優さんの声が聞けなくなるから」だけでなく、その声に記録されていたレイとレイ担さんが月日を重ねて互いに心を開いてきた時間までひとつの連続性として終わってしまうように感じられるからなんですよね。もちろん新しい演者さんはこれからまた新しいレイの時間を積み重ねてくださるし、それはそれで大切なものになるけれど、佐藤さんの声の中にしか存在しなかった関係の育ち方は決して代替され得るものではないですから。台詞を同じように再収録しても「そこへ至るまで実際に重ねられた収録の時間」まではもう二度と録り直すことができない。悲しくなるのは当然の感情だと思います。
今回わたしがとても驚いているのは没入型の恋愛ゲームにおいて新旧音声が同時に存在する期間がとても長いことです。膨大な既存音声を一括で差し替えることが容易ではないだろうことは想像できる一方で、プレイヤーにとっては限りなくキャラクターの身体性に近い「声」が混在している状態は単なるUI上の不統一ではなく作品としてひとりの人物像が揺れて本質的な違和感と言うか、個人的には異なる二人の人物が交互に現れるような感覚に没入を妨げられているような体験になってます。あとはどこからが新ボイスでどこまでが旧ボイスなのかが現状とても分かりにくいと感じます。ちょっとこれはわたしがお知らせを追えていないだけなのかも知れませんが…
ファンの感情という意味では一括変更と段階変更どちらが優しいかはものすごく難しいですよね。今回の移行方法は「旧レイと別れる猶予」にはなるけれど同時に別れが終わるまで何ヶ月も新旧の声を往復することにもなると思うので、恋愛体験としては本当に酷な移行期間なんじゃないかと思います。どこにも吐き出せない気持ちをわたしなんかに打ち明けてくださって本当にありがとうございました。どうか「悲しくなった」「傷付いた」ご自身の作品体験を否定せず大切に守ってあげてくださいね。いつか笑顔になれる日をいつもお祈りしています。