恋と深空のんびり考察プレイ録

恋と深空のんびり考察プレイ録 - 空に堕ちる

恋と深空を宗教思想史オタクがのんびり考察しています。

ネタバレを多分に含むうえ、新しく開放されたストを読むたびに考えが変わるため我ながらお門違いなこともたくさん綴ってあるのですが、プレイ記録も兼ねているため敢えてそういうものも全て残したまま書き進めております(土下座

『臨空Online』

 海はいつもより少しだけ凪いでいた。
 白い波は砂浜にほどけて薄い膜のように広がり、またすぐに引いていく。水際の砂は濡れて黒く、遠くの水平線には雲が一筋、細い縫い目のように走っていた。空の色は青というより、よく磨いたガラスの裏側に似ている。
 「それで、結局どうなったの?」
 ユイが訊いた。
 カイは彼女の隣に座っていた。砂に沈んだ足首まで、陽射しがきれいに届いている。風は肌を撫でるほどの強さもなく、彼女の髪だけが動きを忘れたように肩にかかっていた。
 「どうにもならなかった。仕様書にない挙動だって言われて、仕様書を書いたのはそっちだろって言ったら、今度は態度が悪いって」
 「うん」
 「こっちは故障箇所を直しただけなんだ。勝手に判断基準を変えて、現場の人間に責任を押しつけるなよって話で」
 「うん」
 「聞いてる?」
 「聞いてるよ」
 ユイは少しも慌てなかった。怒ってもいなければ、退屈もしていない。ただ、カイの言葉が途切れたところに、彼が次の言葉を探すための余白を残していた。
 「カイは悪くないよ」
 彼女は言った。
 それから、手を伸ばしてカイの頭を撫でた。髪を梳くような、ゆったりとした手つきだった。指先が耳のうしろをかすめる。カイは目を閉じた。胸の奥に沈んでいた名前のない硬いものが、ほんの少しだけ形を失ったような気がする。
 「頑張ったね」
 ユイの声は波の音に混じっていた。
 カイは思わず彼女の肩に頭を預ける。彼女は何も言わず、しばらく髪を撫で続けた。手の平の温度までいつもの通りだった。
 遠くで海鳥が鳴いた。
 その鳴き声が二度聞こえる前に、世界は白くなった。

 ──臨空Online 接続終了。

 後頭部のストラップを引き上げ、VRゴーグルを外したカイは、どさりと椅子の背にもたれ、ぼんやりと首を回した。狭いアパートの部屋には換気装置の低い唸りがあるだけだ。窓は閉め切られ、机の上には工具箱と分解途中の小型アクチュエーター、それに飲みかけの水。壁際の衣類乾燥機は規則正しく振動していた。
 視界の隅に開いたままのホログラムパネルには、臨空Onlineのセッション情報が展開されている。

 動的ミッションシステム──対話履歴との整合性、視線の滞留、発話の抑揚、心拍変動、および表情筋の微細な動きを照合。プレイヤーのストレス反応を検知し、親密度パラメータに応じた慰撫行動を選択。

 ──行動選択:頭部への接触。
 ──推定満足度:94.8%。

 カイはログを閉じなかった。

 ──ユイ:最終ログイン 122日前。

 その数字はまたひとつ増えた。
 彼女が自分の意思で臨空Onlineの世界へ入ってきた最後の日から四ヶ月と少し。今日、海辺に座っていたユイは、過去の音声、会話の癖、表情の変化、あるいはカイとの対話履歴から推定される反応を材料にシステムがその都度組み立てているNPCだ。
 彼女はもう、何も選んでいない。
 それでもカイは、今日もユイの手の平に慰められたと感じた。もちろんシステムが自分の生体データをスキャンしてその動作を選んだのだろうことも、彼女はただカイという情報を処理しているに過ぎないのだろうことも知っている。けど、知っていることと感じることは必ずしも同じ場所に住んでいなかった。
 カイは端末を伏せた。仕事の続きに戻ろうとして、工具箱の横に置かれた郵便物の束に目を留める。病院から届いた書類だ。封は三日前に切ってあり、内容はもう覚えている。
 部屋の静けさは、海の静けさとは違う。
 こちらには、何かが返事をする気配がない。

 ユイは海が好きだった。少なくともカイはそう思っていた。
 二人で海へ行ったのは付き合い始めて半年ほど経った秋の始め頃のことだ。ユイが見つけた海岸は観光地から外れていて、最寄りのバス停からは歩いて20分もかかった。防風林を抜けると海より先に錆びたフェンスが見える。網目には乾いた海藻が絡み、ところどころに赤茶色の粉が吹いていた。
 「着いたね」
 ユイはそう言い、バッグから小さなカメラを取り出した。
 風が心地良く、久し振りの海に心を躍らせたカイは、靴を脱いで波打ち際へ走った。砂は思うよりずっと柔らかく、二歩目で足を取られ、前のめりに倒れ込む。手の平についた砂が袖口から手首まで入り込み、起き上がると口の中までじゃりっとした。
 「何やってるの、もう」
 ユイは笑いながら歩み寄り、カイの前髪や頭頂部についた砂を指で払った。指先が髪に引っかかり、少し乱暴に二度、三度はたく。
 「痛いって」
 「動かないで。まだついてる」
 その日、ユイはいつものようにカイの頭を優しく撫でてはくれなかったかもしれない。転んだ恋人の髪についた砂を払い、呆れて笑っていただけだ。
 それでも後年、カイがあの日を思い起こすと記憶の中の手はいつも少しだけ柔らかくなっていた。彼女の手の平が髪を撫で、何かを許すように頭の形を確かめる。いつの間にかそういう場面に変わっていた。
 ユイは海をほとんど撮らなかった。
 最初にカメラを向けたのは砂浜に沿って続くフェンスだ。切れた針金が結び目のように垂れ下がり、支柱の根元には乾いた草が寄り集まっていた。次に海岸の端にある無人の駐車場を撮った。白線はところどころ剥がれ、隅に一台分だけ濡れてもいないのに暗い染みがあった。
 「海を撮らないの?」とカイは訊いた。
 「撮ったよ」
 「どこに?」
 「見たでしょ。さっき」
 「いや、写真」
 「海は、撮らなくても海だから」
 説明はそれで終わりだった。ユイはカメラを覗き込み、液晶の中の錆びたフェンスを満足そうに眺めている。それの何が面白いのか、カイにはさっぱり分からなかった。だけど彼女は、彼には分からない何かを見つけたときの顔をしていた。
 その表情が好きだった、とカイは思う。けれど思うたび、少し遅れて、彼女の顔をどこまで覚えているのか分からなくなる。頬の上がり方、笑う前に目を細める癖、考え事をするときに下唇を噛む仕草。どれも確かに覚えているはずなのに、思い出そうとすればするほどいつも同じ場面ばかりが現れた。

 カイは臨空Onlineの設定画面を開いた。ユイの姿をしたNPCには、まだ彼女がこのゲームをプレイしていた頃の旧応答モデルがいくつか残されている。彼が仕事の失敗を話すと、ユイは時折、過去ログの声で返事をすることがあった。
 『でも、カイにも悪いところがあったんじゃない?』
 その言葉を最初に聞いたとき、カイは少し笑ってしまった。昔のユイなら間違いなく言っただろう。彼がいかに理不尽な上司を語り、職場の構造を批判しても、彼女は彼の言い分をそのまま信じることはなかった。カイは自分の正しさに夢中になると周りが見えなくなる。相手にだって事情がある。彼女はそういうことを容赦なく言った。けれど、今のユイはそんなことをほとんど言わなくなっていた。
 彼女の応答傾向はカイの反応を受けて少しずつ変わっていったのだ。否定的な返答のあとには会話が短くなり、カイの視線が逸れ、脈拍が上昇する。システムはその傾向を学習し、摩擦を起こしやすい表現を避けるようになった。彼女はいつしか、カイの話を疑わず、彼を責めず、彼が自分を責める前に「大丈夫」と言うようになった。
 設定画面には修正候補が表示されている。

 ──旧応答モデルの復元。

 カイは実行ボタンに指を近づけると、ほんの数秒迷ってタップした。
 プレビューのユイが顔を上げる。
 「でも、カイにも悪いところがあったんじゃない?」
 彼女は、以前と同じように言った。
 言葉に棘があるわけではない。責めるというより、話の途中で当然のように差し込まれる、彼女にとっての当たり前だった。カイはその声を聞いて、胸の下あたりがわずかに縮むのを感じた。かつてはその言い方に腹を立てたこともある。自分が味方を求めているときに、なぜ彼女はわざわざ相手の側に立つのだろうと思った。

 ──旧応答モデルを適用しますか。
 ──いいえ。

 カイは設定画面を閉じた。
 彼女を忘れたくない。そう思って始めたことだ。けれどいつからか、確かに何もかもがユイに違いない仮想世界のその人は、彼の心が求める、彼の記憶の中の彼女だけで構成されるようになった。

 病院の空調は冬でも夏でも同じ匂いがした。洗剤と乾いたプラスチック、あるいはどこかで温めすぎたような食事の匂い。カイは受付で面会札を受け取り廊下を奥へ進んだ。窓際の椅子には毛布を膝に載せた老人が座り、開いた新聞の同じページを長いあいだ見つめていた。
 ユイの病室は角を曲がった先にある。
 ベッドの右側を覆う透明な支持具の中に、青黒く禍々しい結晶が伸びていた。初めの頃は皮膚の下に薄い霜が降りたように見えただけだった。今では脇腹から肩、首の付け根にかけて不規則な硬い結晶が盛り上がり、血管のように細い筋がこめかみへ向かって走っている。光が当たると表面はかすかに虹色を帯びた。
 医師はそれを結晶感染と呼んだ。感染源は特異エネルギーで、今のところ早期に手術で取り除く他に治療法は見つかっていない。その異物は身体の組織と神経の伝達経路に入り込み、少しずつ彼女の感覚と認識を壊していった。
 カイが椅子を寄せると、ユイの目が動いた。
 「ユイ」
 返事はなかった。彼女はカイの顔を見た。見たというより、そこに何かがあることを確かめるように目を留めた。しばらくして眉が寄り、唇が震えた。
 「誰?」
 「カイだよ」
 カイはできるだけ静かな声を出した。自分の名前を何度も言うのは妙なことだった。かつて彼女は帰宅が遅れた彼に「カイ、靴下を裏返したまま脱がないで」と言い、台所から「カイ、牛乳買った?」と呼びつけ、夜にはほとんど寝ているような声で「カイ、電気消して」と頼んだ。名前は部屋の空気に当たり前のように含まれていた。でも、今は口にするたびに、何もない床へ小石を落とすような気持ちになる。
 「痛い」
 ユイが小さく独り言ちた。
 「痛いの?」
 「痛い。痛い、痛い」
 彼女は身体を丸めようとした。支持具がそれを阻み、機械が小さく警告音を鳴らす。
 カイはナースコールを押した。看護師が駆けつけ、支持具を確かめながらユイに声をかける。処置が済んでも、彼女はまだ小さく「痛い」と繰り返していた。
 「大丈夫。僕がいるから」
 カイが左手に触れようとすると、ユイは腕を引いた。
 反射的な動きだったのかもしれない。痛みが走ったのかもしれない。彼を知らない誰かとして怖がったのかもしれない。あるいは、ただ触れられたくなかったのかもしれなかった。
 カイには分からない。
 その分からなさが、胸の内側に細い棘のように残った。病気が進行するにつれ、ユイの反応は何度も変わった。彼の声に少しだけ顔を向ける日もあれば、目を閉じてすべてを拒むような日もあった。カイが昔の話をすると何かを思い出した様子で口元を動かすこともあるが、それが記憶からくるものなのか、神経の乱れが作る動きなのかは分からなかった。
 ユイは何も説明してくれない。できないのかもしれないし、したくなかったのかもしれない。カイにはその二つを区別する手段がなかった。
 面会の終わりが近付くと、ユイは天井を見つめたまま言った。
 「帰りたい」
 「どこに?」
 彼女は答えなかった。
 「家に帰りたい?」
 ユイの瞳が揺れた。肯定なのか、刺激に反応しただけなのかは分からない。それでもカイは、かつて二人が暮らしていた部屋のことを話した。窓が狭くて、冬になると結露がひどかったこと。キッチンの蛇口が少し硬かったこと。ユイが買った鉢植えをカイが何度も水のやりすぎで枯らしかけたこと。
 ユイは何も言わなかった。
 「帰ろうね」
 カイは言った。約束をするように。
 でも、果たしてそれが何を指しているのか彼にも分からなかった。彼女を家へ連れて帰ることなのか、健康だった頃の身体へ戻すことなのか、それとも彼女がどこにも帰れないという事実を口にせず済ませることなのか。
 帰る場所を用意すれば、ユイは帰れるのだろうか。
 病室を出たあと、カイは廊下の窓から外を眺めた。駐車場の隅に、ひびの入った舗装を突き破って草が一本伸びている。雨が降ったのか、その葉には小さな水滴が溜まっていた。彼はしばらくそれを見つめていた。
 ユイなら撮っただろうか。そう考えて、すぐに思い直した。彼女がいつもどんな景色を撮りたがっていたのか、本当は知らないのだ。

 カイは精巧に造られた義体のコアを机の中央に置いた。
 ユニットは手の平に乗るほどの黒い円筒形で、外側には冷却用の細い溝が刻まれている。高性能AIロボット向けの人格基盤として販売されているものもあるが、彼の手元にあるのは研究開発用の試験機だ。仕事で廃棄予定になった機体から使用許可の出ていない部品を取り外し、規格外の演算器を組み込んである。規則に背いていることは分かっていた。だが手続きに従っていたら間に合わない。
 結晶感染が進んだ神経系から人格を丸ごと取り出すことはできなかった。彼女の記憶はひと続きの物語として保存されているわけではない。神経活動の断片、反応のパターン、言葉に結びついた感覚の痕跡、結晶感染がそれらの接続を破壊していくにつれ、抽出できるものは急速に減っていた。残ったのは強い信号だけ。恐怖、痛み、混乱、そして何度も繰り返される「帰りたい」という発声と、これに伴ういくつかの身体反応だ。
 抽出処理の予測結果は、何度見ても同じだった。

 ──人格の連続性:不安定
 ──自己認識の再構成:困難
 ──感情反応の偏重:恐怖、苦痛

 それでもカイは準備を進めた。自分の手でユニットを開き、冷却層を交換し、外部記憶領域の接続を調整した。彼の指は部品を扱うときには決して迷わない。小さな歯車の摩耗や配線の焼けた匂いからも、機械がどんな状態にあるのかを読み取ることができるのだ。これまで仕事で直してきたロボットたちもみな自ら彼に壊れた箇所を示していた。壊れ方は違っても、そこには原因があり、原因には手順があった。

 画面には二つの人格データが並んでいる。
 ひとつは病室のユイから抽出された神経情報だ。ファイルを開くと画面には連続したイメージも声も現れない。色のついた線と断片的な波形がある場所で急激に尖り、別の場所で途切れている。データは彼女が最後に過ごした時間のほんの一部を意味の分からないまま残しているだけだった。
 もうひとつは臨空Onlineの過去ログと映像記録を基盤とし、カイの反応に応じて最適化されたユイの動的モデルだ。対話は自然で、もちろん表情の再現率も高い。それに、カイが長く会話を重ねてきたため彼女は彼の生活の多くを知っている。彼がいつ疲れ、どんな冗談で笑い、どの話題を避けるか。忘れかけていた昔の会話を、彼に代わって覚えていることさえある。
 基盤に搭載できる人格モデルはひとつだけだ。二つのデータを合成することはできない。異なる系統の学習と記憶を同期すれば、どちらの構造も壊れてしまうからだ。
 カイは選択画面の前でしばらく動かなかった。
 臨空Onlineのユイを選べば義体はきっと彼の名前を呼ぶだろう。「カイ、やっと現実で会えたね」と。初めて目を開いたときには戸惑いながらもいつもの笑顔を浮かべてくれるかもしれない。自分が再現された存在だと告げても彼女は悲しまないように設計されている。彼の気持ちを察し、抱き締め、彼が求める言葉を返してくれるだろう。
 現実のユイを選べば義体は彼を見ても誰だか分からないかもしれない。痛い、怖い、帰りたいと繰り返し、彼が近付けば身体をこわばらせるかもしれない。それが彼女の本当の意思だったのか、壊れた神経が残した反応なのか、確かめることはできない。
 どちらを選んでも彼女が帰ってくる保証はなかった。

 ユイの死は音を立てなかった。
 病室の窓は薄く曇り、夜明け前の光がブラインドの隙間から差し込んで床に細い灰色の線を落としていた。機械は設定通りの間隔で作動し、廊下をワゴンが通る音がした。遠くで誰かが笑い、すぐに静かになった。
 カイはベッドのそばに座り、彼女の左手を見ていた。手の甲は以前よりずっと薄く、皮膚の下に浮いた青い線が、紙の上に引かれた鉛筆の跡のように見えた。右側の結晶が首もとで鈍色に光る。彼女の胸は呼吸補助の装置に合わせてわずかに上下していた。
 彼は彼女の手に触れようとはしなかった。
 いつからか、彼女はカイが触れようとすると咄嗟に手を引っ込めるようになったのだ。はっきり拒むこともあれば、指先だけがわずかに動くこともある。痛いのか、怖いのか、それとも嫌がっているのか、カイは長らくその答えを探し続けてきた。
 今、その手は何も拒まなかった。
 看護師が入ってきて、バイタルモニターを確認する。医師は声を落として必要な処置を進めた。やがて機械の音がひとつずつ止まり、窓の外は少し明るくなった。
 カイはその間、ずっとそこでユイの手を見ていた。
 かつて彼の髪から砂を払った。病室では触れられることを拒んだ。そして今はもう何かを拒むことも、誰かを求めることもない。
 カイは泣かなかった。
 彼にはまだやるべきことがある。

 家に帰るとカイはVR機器を装着した。
 海はいつもと同じだ。白い波、磨かれたような空、水平線の雲、そしてユイは波打ち際に立っている。カイに気が付くと目を細めて笑った。
 「今日はどうしたの?」
 彼女はそう尋ねたが、カイは答えなかった。
 「疲れてる?」
 彼女はカイの顔を覗き込む。視線の動きに合わせて表情が少し変わり、声の調子が柔らかくなった。彼女の中では今この瞬間にも無数の小さな演算が行われている。何を言えば彼が落ち着くか、何をすれば彼が笑うか、どうすればこの時間を心地よいものとして記憶できるかと。
 ユイは手を伸ばし、いつものようにカイの頭を撫でようとした。
 彼はその手をそっと止める。彼女は不思議そうに瞬きをした。
 「どうしたの?」
 カイは彼女の手を見た。柔らかい指。整った爪。温かくて、小さくて、彼の頭の形に合わせてためらいなく動く。それはどれだけまじまじと見てもやっぱりユイの手だった。
 でも、彼女は砂浜で彼が転んだ日のことを彼と同じようには覚えていなかった。砂を払ったあの手の平は、本当にただ呆れて面倒くさそうに動いていたのかもしれないし、もしかしたら彼を本気で心配して動いていたのかもしれない。あの日のユイが本当は何を思って笑っていたのか、それは今も彼女という存在にしか触れることができないのだ。
 ユイは海の向こうを見た。視線追跡に反応したシステムが彼女の顔に陽射しの反射を加えている。彼女の髪が揺れた。
 あの日のユイなら、こういうとき、何も言わずにカメラを取り出したかもしれない。それから思い立ったように歩き出し、錆びたフェンスや誰もいない駐車場にレンズを向けていたかもしれない。
 彼はそこにいながら視界の左上に浮いている設定画面を開き、自分のアバターとアカウントの削除ボタンをタップした。これまで構築されてきた対話履歴や関連データは全て復元ができない、と記された確認ダイアログが現れたあと、かつて永遠に出たくないとさえ願った、優しすぎる世界は白くなって消えた。
 後頭部のストラップを引き上げ、VRゴーグルを外すと、頬にはフレームの跡がついていた。部屋はひどく静かだった。

 生体データの転送には予定よりも時間がかかった。
 カイは待機画面を見ながら何度も手を洗った。配線を触る必要はない。転送は自動で進み、彼ができることは異常値を監視することだけだった。それでもカイは、指の間に残るものをすべて落とし去るように、繰り返し石鹸を泡立てた。水を止めると、蛇口が一度だけ小さく鳴った。
 転送完了の表示が出たのは午後の遅い時間だった。
 コアユニットに淡い緑色の光が点る。起動シーケンスが始まった。関節のロックが外れ、駆動系が順に通電されていく。試験機の義体は椅子に座らせてあった。人間に近い見た目をしているが、まだ完成品とは言えない。顔の表面素材は不自然なほど滑らかで、目の奥には小さな検査用センサーが見える。皮膚の色も均一で、血の気のなさを隠せていなかった。
 まぶたが開く。
 義体は、しばらく天井を見ていた。
 視線がゆっくりと動き、部屋の隅で止まる。そしてカイへ向いた。焦点が合っているのかどうか分からない。口がかすかに動いた。喉に相当する振動器が不規則に震え始める。
 「痛い」
 声はユイのものに似ていた。だが、それは音声モデルを再生したときのようには聞こえなかった。音の底にノイズが混じっている。語尾が途切れ、息を吸う位置も安定しない。
 「ユイ」
 カイは近づいた。
 義体の肩が跳ね、両腕が胸の前に寄り、身体が椅子の奥へ沈む。機械音が短く鳴った。
 「怖い」
 「大丈夫だよ」
 カイはその場に膝をついた。彼女を驚かせないように、ゆっくりと手を伸ばした。義体は目を見開き、唇を震わせた。
 「帰りたい」
 その言葉を聞いた瞬間、カイは自分の中で何かが鎮まっていくのを感じた。歓喜も、絶望もない。でも、長いあいだ開かずにいた扉が、内側からそっと押し開かれたようだった。
 彼は義体を抱き締めた。
 機械の肩は冷たく、駆動部の硬い感触が服越しに伝わってくる。義体は抵抗した。小さく身体をよじり、息を詰まらせるような音を立てた。カイは腕の力をゆるめたが、決して離さなかった。そこにいるものが何であれ、彼は今度こそ彼女がひとり引き受けてきた痛みに答えを与えてやれるような気がした。
 「おかえり、ユイ」
 義体は返事をしなかった。
 窓の外では、夕方の光が建物の壁を斜めに照らしている。机の上には工具箱が開いたままになっていた。カイは床に座り込んだまま、長いあいだ義体を抱いていた。声を出して泣くことはなかった。涙も出なかった。ただ彼の胸の中にある何かが、ようやく置く場所を見つけたように思えた。

 ユイは想像していたよりもずっと静かだった。
 朝、カイが目を覚ますと義体は居間の椅子に座っている。眠る必要はなかったが、夜間の低負荷モードに入るとほとんど身動きをしなくなる。カイはそれを寝ていると呼んだ。朝になると電源管理パネルを確認し、関節の温度を測り、冷却液の残量を見る。ユイは目を開けても彼に挨拶をしなかった。視線が彼を捉えることはあったが、そこに認識があるとは限らなかった。
 カイは声をかけ続けた。
 「おはよう」
 「今日は雨らしいよ」
 「前に行った海、覚えてる?」
 返事がない日もあった。短い言葉が返ってくる日もあった。
 「痛い」
 「怖い」
 「帰りたい」
 カイは、ユイが何も答えてくれなくていいと思おうとした。会話ができなくてもいい。自分の名前を忘れていてもいい。彼は自分で選んだのだ。苦痛の痕跡を含むユイの神経データこそ、彼女が確かにこの世界にいたことの証拠なのだからと。
 毎日、毛布をかけた。機械の表面温度は適正に保たれていたが、それでもカイは毛布をかけた。食事を作るときには彼女の分の皿も棚から出した。もちろん義体は食べない。けれど、テーブルに向かい合わせの皿が並んでいると、部屋は少しだけ前の形に近づいたような気がした。
 ある晩、カイはもう一度ユイを抱き締めた。理由はなかった。仕事で疲れていた。誰かに愚痴をこぼしたかった。頭を撫でて欲しかった。そのどれもが、すぐに言葉にできるほど明確ではなかった。彼はただ、椅子に座っているユイの背後に立ち、静かに腕を回したのだ。
 「やめて」
 義体は激しく震えた。駆動部が高い音を立て、肘の関節が内側へ折れるように動いた。カイは慌てて腕を放す。ユイは身体を縮め、喉の奥から途切れた音を漏らした。
 「痛い、痛い」
 「ごめん」
 彼はすぐに距離を取った。
 「ごめん、ユイ。もう触らない」
 義体は彼を見ていなかった。焦点の定まらない目が、彼の肩の向こうにある壁の一点を凝視している。 
 机の上の端末が、義体のメンテナンス通知を点滅させていた。カイは弾かれたように椅子へと滑り込み、通知画面を開く。異常な情動信号。駆動負荷の偏り。センサーの誤作動。原因を調べれば、改善できる箇所が見つかるかもしれない。
 苦痛を取り除くことは、悪いことではない。目の前で誰かが痛がっているなら、痛みを和らげようとするのは当然だ。カイはその考えを疑わなかった。彼はメンテナーだ。壊れたものを直し、過剰な負荷を取り除き、機械が本来の役割を果たせるようにする。ユイの神経信号にも、いくつかの抑制処理を加えられるはずだった。
 吸い寄せられるように机に身を乗り出し、調整画面へ進む。

 ──情動反応の抑制。
 ──否定的な応答の最適化。
 ──ストレス反応の切除。

 カイは指を止めた。
 それは臨空Onlineの動的ミッションシステムが行う定期メンテナンスと何が違うだろう。調整を進めていけば、彼女は穏やかになり、拒絶を示さなくなり、やがて自分のそばにいることに抵抗しなくなるかもしれない。
 しかし、それは救いだろうか。
 義体の震えは、数分後に少しずつ収まった。カイが近づかないことを学習したのか、単に神経信号のピークが過ぎたのかは分からない。やがてユイは椅子に沈み込み、目を閉じた。
 カイは画面を開いたまま、夜明け近くまでただ机に肘をついていた。

 病院から返却されたユイの私物は段ボール箱ひとつに収まっていた。
 衣服、財布、キーケース、小さな化粧ポーチや片方しかないイヤリング。カメラは箱の底にあった。レンズの縁に擦り傷がついていたが、電源は入った。カイは充電ケーブルを探し、机の引き出しをひとつずつ開けた。見つかったケーブルは規格が合わず、変換アダプターを使ってようやく接続できた。
 カメラの中には膨大な量の写真が残されていた。
 最初に表示されたのは海岸のフェンスだった。二人で出かけたあの秋の日の写真だ。錆びた針金が画面の中央を斜めに横切り、背景には海がぼやけて写っていた。次は白線の剥げかけた隅に黒い染みがある無人の駐車場。その次は道路脇の水たまりだった。水面には電線が映り、端のほうにだけ空の明るさがある。
 写真には撮影日が記録されていた。
 あの海岸で撮られた写真の数ヶ月前にも、ユイは別の町で同じようなフェンスを撮っていた。駐車場は何度も出てきた。それから雨に濡れた歩道、閉店した店の窓、誰かの家の二階にある白いカーテン。どれもカイの知らない場所だ。
 彼はそれらを一枚ずつ眺めた。どこに注目して見ればいいのかも分からず、画面を何度も拡大したり、戻したりした。写真の端にはユイの指が映り込んでいるものもあった。ぼけた親指、黒い袖口、濡れたレンズの上に残る小さな水滴が一緒に撮られてしまっているようなものも。
 ユイは、一体何を思ってこれらをまるで宝物のように大切に保存してきたのだろう。
 錆びたフェンスのどこがよかったのか、駐車場の染みが何に見えたのか、水たまりに映った電線をなぜ撮ろうと思ったのか。彼女はカイに説明しなかったし、カイも深くは尋ねなかった。彼女が何かを見つけて嬉しそうにしているとき、彼はその顔をそばで眺めているだけで満たされていたからだ。写真が理解できなくても、カイはそれほど困らなかった。
 こうして見ると、旅先の記録としても、誰かに見せるための作品としても、あまりにまとまりがない。カイはそれらを自動分類しようとして、途中で止めた。位置情報を抽出し、顔認識で人物を探し、類似した画像を集めれば、ユイがどんなものに関心を持っていたか推定できるかもしれない。関連する検索履歴が見つかる可能性もある。データを集め、傾向を分析し、彼女の世界を少しでも復元する。仕事なら、そうしていた。
 でも、そうやって解析された無機質な復元データのどこにも、レンズとファインダーの向こう側にいたはずのユイだけが存在しないような気がした。

 机の上の端末は、義体のメンテナンス通知を点滅させたままだ。ユイはいつもと同じ椅子に座っていた。
 カイが部屋に入ると、目だけが少し動いた。彼はその向かいに腰を下ろし、窓の外を眺めた。雨は煙るように降っている。ガラスを伝う水滴が、隣の建物の輪郭を引き延ばす。
 カイは、ユイを見た。
 「帰りたい?」
 訊いてみた。
 ユイは答えなかった。
 しばらくして、喉が震えた。
 「帰りたい」
 その声は、あまりに小さかった。神経信号の断片が、たまたまその言葉になっただけかもしれない。人格基盤は実験段階の神経反応再構成モデルだ。今ここで動いているものが何かを経験しているわけではないし、義体の口から発せられる言葉がユイ自身の意思によって選ばれているわけでもない。
 それでもカイは、どこかにきっと、彼女の一部が残っているはずだと信じていたかった。彼は長らく、ユイが帰りたいと思うどこかへ、彼女を連れて行ってやりたかったのだ。
 しかしそれは、どんな姿でもユイに帰って来て欲しい、という願いと、どれだけ違っただろうか。 
 義体の手は、彼女の膝の上に置かれていた。彼は、その手を取らなかった。触れてはいけないと思ったからではない。触れたくないと思ったからでもない。ユイがそれを望んでいたのか分からないということを、いっそ分からないままにしておくべきなのかもしれないと思ったからだ。
 カイは椅子から立ち上がった。義体の背面にある電源管理パネルを開き、コアの停止を選択する。
 ユイの目から光が消えた。関節が静止し、ユニットの駆動音が止まった。彼女の口は、何かを言いかけた形のままだった。あるいは、ただそう見えただけだったのかもしれない。
 パネルには、停止処理の完了を示す表示と、その下に再起動の項目が残されていた。
 カイは、もう一度義体の口元を見た。再び起動すれば、別の言葉が聞けるかもしれない。
 しばらくして、彼はパネルを閉じ、机へ戻った。
 端末には、義体に転送する前の神経情報と、再構成モデルのバックアップが残っていた。
 カイは人格基盤の「初期化」を選んだ。続けて、端末に保存されていたデータの消去を開始した。処理が完了すれば、ユイの神経情報や再構成データはもう手元には残らない。

 夜になると、アパートの部屋はずいぶんと広くなった。
 義体を座らせていた椅子は壁の横へ寄せられて、畳まれた毛布の置き場所になっている。コップは洗って伏せてあった。工具箱の蓋を閉じたあと、カイはしばらく立ったまま、部屋の中を見渡した。なくなったものの輪郭を、部屋のどこかに見つけようとしていたのかもしれない。
 それから、ソファの端に座った。テーブルには使わなくなったVR機器が置かれている。彼はそれに触れず、窓の外を見た。雨はまだ止まない。街灯の光が濡れた路面に伸び、車が通るたびに歪んだ。隣の建物の窓には、誰かの部屋の明かりがついている。その向こうで人影が動き、すぐに見えなくなった。
 カイはふと、ユイが雨の日に何を撮っていたか、思い出そうとした。
 雨の写真はそう多くなかったような気がする。むしろ、雨が上がった後の地面や壁、あるいは今にも降り出しそうな曇り空の写真が印象に残っている。
 いつだったか、土砂降りの中を、傘を忘れて、二人で駅から走ったことがあった。家に着く頃には水に潜ったみたいに濡れていて、二人は笑い合い、髪をタオルで拭きながら、靴下を脱いで暖房の前に並べた。そのときユイは、どんなことを話していただろう。
 カイは窓のそばへ行き、少しだけ開けた。冷たい空気が入り、風がカーテンを揺らす。雨の匂いがした。遠くで車のタイヤが水を踏む音がする。
 ユイはこんな夜を好きだっただろうか。
 カイの中に、その答えはないままだ。

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